弘法大師(空海774~835)は、平安時代初期の高僧で、真言宗の開祖として知られています。
十五才で京に出て勉学に励みましたが、生地である四国の山や海辺に修行を求め霊場を開くという青年時代を過ごしました。

弘法大師の没後、平安末期頃から真言宗の僧侶たちによって、これらの修行の足跡を聖地として巡礼する四国遍路が生まれました。

お遍路では、この八十八ヶ所の札所を巡ることで、弘法大師の功徳が得られるとされています。

四国八十八箇所
お遍路巡礼代行参拝サービス
屋号:同行二人 空海堂
徳島県板野郡藍住町乙瀬字出来地44-9
浜田義文
TEL&FAX 088-692-0978
携帯電話 090-8971-5024
E-mail sikoku88dairisanpai★gmail.com
お気軽にご相談ください。浜田義文
この手で一ヵ寺一ヵ寺大切に納経し御朱印、黒書を頂きながら御依頼主様のお気持ちを弘法大師様へお伝えいたします。

お知らせ

News
  • 2017/3/28
    薬王寺での厄除け、厄落しの代理参拝サービスを開始しました。

四国八十八箇所巡礼代行参拝について

四国八十八箇所巡礼代行参拝 空海堂のホームページへお越し頂き誠にありがとうございます。
代行参拝の仕事を始めて以来、たくさんのご依頼を頂き大変感謝しております。御依頼主様からの心温まるお言葉や感謝のお言葉を頂戴し大いに今後への励みとなっております。

私が代行参拝の仕事へ従事する切っ掛けとなったのは父親が末期癌に倒れ余命僅かだと医師より告げられた時、前々より父が暇を見付けては四国八十八箇所巡礼に出掛けていたのですが、二十ヶ寺程残りがあり気掛かりでならないとの言葉を受け私が代行で参拝することにしました。それまでは全く興味の無い事ゆえ何も分からず、巡礼の作法、納経の手順、般若心経など一からの勉強で休日休暇を利用し試行錯誤の末、高野山奥の院参拝にて無事大役を終え病床の父へ報告する事が出来ました。父も大変喜んでくれ最後に親孝行ができ旅立ちの日に棺に入れてあげることもでき自分でも納得が行きました。
私自身もその当時、胃癌と脾臓脾腫により胃袋の半分と脾臓を全摘出する大手術を受けた直後でもあり体調面での不安も有りましたが、各札所を訪ねる度に少しずつ気持ちも晴やかになり多分に気のせいだとは思いますが体調も日増しに良くなり、大学病院の医師も驚くほどの速さで治癒に向かいました。全てが良き方向へ向かったと自負しております。

その後、親戚の方や友人知人関係から次々と代行参拝の依頼が入る様になり片手間では出来ない事態となり専業とする事としました。ホームページを公開してからは全国の皆様よりご愛顧頂き感謝の念に堪えません。

四国八十八ヶ所お遍路巡礼の由来

古来、四国は国の中心地から遠く離れた地であり、様々な修行の場でありました。讃岐でご生誕されたお大師さま(弘法大師・空海)もたびたびこの地でご修行をされ、八十八ヶ所の寺院などを選び四国八十八ヶ所霊場を開創されたと伝えられております。そのお大師さまの御跡である八十八ヶ所霊場を巡礼することが遍路です。当初の遍路は、修行僧などが中心でした。その後、お大師さまに対する人々の信仰(弘法大師信仰)の高まりと共に、日本全国から多くの方が遍路されたといわれております。そして、お大師さまのゆかりの地として、誰しもが一度は訪れたい霊場として発展していきました。

四国を一周ぐるりと囲むように点在する弘法大師空海ゆかりの八十八の札所寺院。それらを繋ぐ道はたくさんの人々によって何度も何度も歩かれてきました。それぞれの道はそれぞれの「生き方」。同じ「道」はひとつもありません。最初は細く弱々しい道も年月を経て重ねられるごとに太く力強いものになっていきました。

御依頼者様の心と共に空海の辿った山河を巡り一ヵ寺一ヵ寺を大切に納経参拝し納め札を納めた後、御朱印と黒書を頂いて参ります。
八十八箇所巡礼代行参拝を終えますと和歌山県高野山奥の院を参拝し御朱印と黒書を頂き満願となります。
お授かり頂いた御朱印帳と御本尊の御影は生涯のお守り家宝となり、永眠されたとき旅立ちの御道具としてお持ち頂ければ良き場所へのお導きを賜る事となります。

また御自身で何ヵ寺か巡られた後、残りの札所へどうしても行かれない場合や高野山のみ行かれていない場合等御座いましたら是非御相談下さい。一ヵ寺よりお引き受けいたします。

御身体の御不自由な方、御高齢の為長旅に自信の無い方、時間的に余裕の無い方、御先祖様の御供養をお考えの方は是非御相談をお待ちしております。

弘法大師空海

お大師さま(弘法大師・空海)は、宝亀五年(774年)に讃岐「屏風ヶ浦」(現在の香川県善通寺市)でご誕生されました。
幼名は真魚。幼少より聡明であったといわれております。15歳の頃、高級官吏(官僚)になるために長岡京に上り勉強をされ、18歳で大学に入学。その頃に吉野や葛城山で仏道修行をされている修行者に出会い、大きな影響を受けられ、自身の進むべき道が仏の教えであると決意されます。そこで、周囲の反対を押し切って大学をやめられ、求法のために、ご生誕の地である四国の石鎚山や大瀧嶽、室戸崎などで虚空蔵求聞持法などの厳しい修行をされました。その修行の日々は『三教指帰』などに著されております。

その後、名前を「空海」と改められ、遣唐使の一行として唐に渡り、長安の青龍寺にて恵果和尚より密教のすべてを学ばれました。帰国後、真言宗開創の許しをえられ、高野山や東寺を賜り、『即身成仏義』や『秘密曼荼羅十住心論』等を著され、密教を中心とした仏法興隆に努められます。
また、我が国最初の民衆のための教育機関「綜芸種智院」の建立や満濃池の修築など、教育普及や社会的事業にもご尽力されております。そのご生涯を、鎮護国家、済世利民のためにつとめられ、人々が幸せであり、繁栄することを理想とされ、私達一人一人が自らの能力、才能を存分に生かしきる生き方を目指し、努力することをすすめられたお大師さまは、承和2年(835年)に高野山において62歳でご入定されました。
その功績を称えられ、延喜21年(921)に醍醐天皇より弘法大師の大師号が贈られております。

同行二人とは

遍路修行をしているとき、常にお大師さま(弘法大師)と共にいるということ。
四国遍路の場合は、その象徴として、金剛杖がお大師さまそのものとされています。
遍路修行者は複数人であっても、個人対お大師さまの同行二人であります。